沖縄では採れない昆布が、郷土料理としてよく食べられているのは?

昆布-豚肉-大根 食べ物こぼれ話

昆布は、沖縄の郷土料理でよく食べられていますね。
しかし昆布は沖縄では採れません。

沖縄だけでなく、海水温が低い地域でしか生育しない天然昆布は、国内で採れるのは北海道周辺から三陸海岸沿いまで。
その昆布がなぜ、北海道から2000km以上離れた遠い南方の沖縄の地で、日常的によく食べられる食材として根付いているのでしょうか?
そういえば、鹿児島でも鯖などの魚を巻いた昆布巻きや、煮しめの具材としてもよく食べられていますね~。

昆布の食文化の歴史をたどってみると、日本列島を縦断する、北海道→富山→鹿児島→沖縄、そして中国に繋がる、それぞれの目論見が絡みあう壮大な「昆布の道」が見えてくるのです。

蝦夷(北海道)から内地に運ばれる昆布

昆布-1

昆布は「続日本書記」(797年)に「蝦夷の酋長が朝廷に対して先祖以来、昆布を献上し続けている」という記録があり、古くから日本海沿岸を通り、若狭の小浜などを経由して京都・大阪方面に運ばれていました。

江戸時代中期に西廻り航路が整備され、蝦夷・松前と大阪を結ぶ物資の運搬をする北前船が行き交うようになり、京都・大阪で人気の昆布も運ばれる量が増えていきます。
北前船は物資の運搬をしていただけではなく、寄港地で安くて良い品物があれば買い、船に積んでいる荷物の中に高く売れる物があればそこで売るという「商売」をしながら日本海を航海する船でした。

西廻り航路はどんどん西に伸びていき、下関から瀬戸内海を通り堺(大阪)まで、また長崎出島までも物資を運ぶようになりました。

江戸時代の薩摩藩の懐事情

江戸時代、石高77万石とされた薩摩藩ですが、実は財政難に喘いでいました。
もともと火山地である薩摩は、米をはじめ農作物の生産力が低いうえに、参勤交代や江戸城の改修・木曽川治水工事などを幕府から命ぜられ、膨大な出費を強いられていました。
財政は常に火の車で、八代藩主・島津重豪(しげひで)の頃には500万両(当時の藩の収入30〜40年分ぐらい)もの借金を抱えるほどに。

そこで薩摩藩は、1609(慶長14)年に征服した琉球王国(琉球口)を介し、幕府に気づかれないよう密かに、様々な品物で密貿易を始めます。

その貿易のなかで「清(中国)ではヨウ素不足による甲状腺の病気が流行していて、ヨウ素を含む昆布を非常に欲している」ということは知っていました。
しかし、薩摩から昆布が採れる蝦夷地は遠く、昆布を扱う大阪の問屋から買うと高いのです。
どうしたらもっと安価で手に入れることができるだろうか?と模索していることに目をつけたのが、薩摩藩に出入りしていた「薩摩組」と呼ばれる「越中富山の薬売り」です。

富山藩が売薬を始めた事情

富山城址公園-前田正甫像
富山城址公園の前田正甫像

富山藩は、加賀藩の支藩として1639(寛永16)年に成立しました。
石高は10万石の藩ですが、領地は神通川(じんづうがわ)と常願寺川(じょうがんじがわ)に挟まれた縦長の稲作に不利な地。
神通川と常願寺川は暴れ川で度々洪水を引き起こし、その度に苦労して作った米など、壊滅的な被害を受けていました。
富山藩は財政難に陥ってしまい、領の民は農閑期に外に出て仕事をする必要に迫られました。

そういう事情もあり、薬を作り販売するのはどうか?という案が浮上します。
正確にはハッキリしていませんが「長崎生まれの備前(岡山)の医師・万代常閑という人が所持していた『反魂丹(はんごんたん)』の製法を、二代藩主・前田正甫(まさとし)が聞きつけ、その薬方を取り寄せ、城下の薬種商売人に伝授して作らせた」というのが始まりと言われています。
富山藩の地は稲作には不利でしたが、薬を作るのに必要な水は豊富にあったのです。

「反魂丹」は含有する薬種により違ってくる万能薬。主な効能は胃痛・腹痛の緩和です。
二代藩主・正甫が江戸詰めをしていたある日、江戸城で腹痛を起こした大名に反魂丹を差し出したところ、たちまちに回復したことが他の大名にも伝わり、全国に知れ渡ったのだそうです。

売薬は富山藩の保護・統制を受け、藩の一大産業に発展していきます。
売薬人達は商売の範囲を守り、それぞれの懸場帳(富山藩と客である藩の両方で許可された商売できる権利)をもとに、全国に行商に出かけていました。

しかし、その行商はいつも順調だったわけではありませんでした。
江戸時代後期になると財政が逼迫している藩が増え、他の藩との商売を極力控えるようになります。
薬などの品物は欲しいけれども、それの購入により藩内のお金が出ていくことが不安なのです。
売薬商人は度々営業の差し止めを受けるようになります。
それを予防または解除してもらうために、売薬行商人達は相手客(藩)にとって利益になるような、おいしい策を講じなくてはいけなくなりました。

昆布は薩摩藩内での行商を許可する条件の品

富山駅前-富山の薬売り像
富山駅前にある富山の薬売り像

とくに財政悪化に苦しんでいた薩摩藩は、藩への人や物が流入することを強く警戒していました。
それで、薩摩藩を担当していた薩摩組(売薬人)も、藩内に出入りするのはかなり大変なことでした。
富山藩は浄土真宗が盛んでしたが、薩摩藩は浄土真宗を禁教としていたので「富山の薬売り」と名乗れず「越中八尾の薬売り」と名乗るほど細かく気を遣って、やっと出入りを許されたほどです。
それほど苦労して出入りを許されていた薩摩組でしたが、それでも度々営業差し止めを受けます。
その対策にと、仲介人である鹿児島町年寄の木村喜兵衛から「藩への献上品として昆布はどうか?」という提案をもらいます。

富山藩は北前船の寄港地であり、売薬商家で北前船主でもあった密田家などの豪商が経営する廻船問屋が多くありました。
その売薬商家の北前船を使い、幕府に気づかれることなく、蝦夷の松前から西廻り航路や後に整備される東廻り航路で、入手した昆布を薩摩に運ぶことが出来たのです。
薩摩藩としても願ってもない話で、昆布をもたらすことを条件として、売薬商人の薩摩での行商を許可しました。

薩摩に運ばれた昆布は、琉球王国(沖縄)を介して朝貢貿易として清(中国)へと送られ、清からはそれと引き換えに生糸・反物・高価な漢方薬・薬の材料などを輸入し、それを大阪などで売り、莫大な利益を上げました。
こういう清との密貿易で、薩摩藩は財政の立て直しに成功するばかりか、倒幕資金も作り、明治維新を牽引するわけです。

この取り引きは富山藩にとってもメリットがありました。
まず、大量に昆布が売りさばけること。そして長崎出島から入ってくる薬の材料は値段が高いのが悩みでしたが、それを安価で手に入れることができるようになったのです。
また、琉球王国にとっても「清(中国)に対して好い顔ができる」というメリットがありました。

琉球(沖縄)で昆布が食べられるようになったわけ

クーブイリチー
クーブイリチー(昆布の炒めもの)

この密貿易の経由地である琉球では、進貢貿易品としては規格外で清(中国)に送れない昆布や、仕入れ過ぎて余ってしまった昆布もありました。
そうした昆布が琉球の庶民に安い値段で供給され、出回っていったとされています。

沖縄の水は硬水のため、あまり良い出汁は取れません。なので、主に炒めたり煮物の食材として食べられるようになりました。
昔から食べられていたイノシン酸を多く含む豚肉と、グルタミン酸を多く含む昆布を一緒に調理すると、そのうま味の相乗効果で美味しさや栄養が倍増するということで、またたく間に広まっていったようです。
沖縄の言葉で、昆布のことを「クーブ」と呼び、今も「クーブイリチー(昆布の炒めもの)」「クーブマチ(昆布巻き)」などや、煮付けや炊き込みご飯、沖縄そば(豚の三枚肉入りそば)に結び昆布をと、今でもよく食べられています。

食文化も広げた「昆布ロード」

蝦夷(北海道)から日本列島を縦断し、琉球(沖縄)経由で清(中国)まで繋がっていた「昆布ロード」。
北海道では主に出汁用として使われますが、北陸ではとろろ昆布、関西では佃煮など、各地で独自の昆布食も生まれました。

様々な人々の目論見で繋がった昆布ロードは、日本の食文化も広げた「食の道」でもあったのです。

沖縄そば-昆布-三枚肉

沖縄そばも
うんまかでなぁ〜

昆布の栄養と効能については、下記に詳しくまとめてありますので、よかったら一緒にお読みください。

参考資料:
Discover Japan 昆布の採れない富山県と昆布の深いカンケイ(前)
富山商工会議所 会報「商工とやま」平成19年5月号
ミツカン水の文化センター 和船が運んだ文化
てつ校長のひとり言 沖縄で昆布がたくさん食べられているのは何故?
RIFF.沖縄と昆布

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