福山の酢造りと薩摩藩の財政改革を支えた、薩摩の二人の豪商

トコロテン-寒天 食べ物こぼれ話

福山で酢造りが始まったのは、今から200年以上前の江戸時代後期に、中国から来た商人が福山の「竹之下松兵衛」に米から酢を作る方法を教えたのが始まりとされています。
福山での酢造りが盛んになったのは、冬は暖かく夏は比較的涼しく湧き水も豊富という、酢造りに適した地だっただけでなく、薩摩藩の大きな後押しがあったからです。

薩摩藩は膨大な借金を抱えていた

1833(天保4)年に、それまで藩政の実権を握っていた祖父・重豪(向学心旺盛で、明時館〈天文館〉を造ったり様々な文化事業を行ないましたが、そのためにお金を湯水のように使った)が亡くなったことで、島津斉興が第10代の藩主として、ようやく藩政改革に取りかかれました。
それでなくても、参勤交代や治水工事をするよう徳川幕府から命じられ、財産は減る一方だったわけで、当時の薩摩藩は500万両という膨大な借金(当時の藩の収入の30〜40年分ぐらい)を抱えている状態。破綻寸前のヨレヨレでした。

斉興は、経済感覚に優れている調所広郷を重用して、様々な財政改革を行います。
まず、その500万両の負債の250年賦無利子償還を江戸と上方で施行します。
そして、中国(清)との密貿易や、奄美・徳之島などでとれた(島民に大きな負担をかけた)黒砂糖の専売制などの、財政面の改革を行いながら、物産品の品質改良にも力を入れていきます。
米・煙草・椎茸・鰹節・木綿・薩摩焼など、あらゆる物産の開発を進めていきましたが、福山の酢もその一環として生産されました。

その頃の物資を運ぶ主要交通機関は船で、宮崎沖の日向灘航路が出来てから、福山港は近くに都城島津家があることもあり、薩摩藩の生産物が集まる港として栄えていました。
それもあり、酢造りに必要な苗代川地区(今の日置市)で作られる薩摩焼の甕壺や玄米などが、福山に集まりやすかったということなのですが、それ以上に藩をあげて福山での酢造りを推し進めたのには、もう一つ大きな目論見がありました。

福山酢-甕壺

薩摩の二人の豪商の活躍

薩摩藩が莫大な借金を返済し、それどころか倒幕への資金まで持てた背景には、薩摩の二人の豪商の活躍があります。
福山の豪商・厚地次郎右衛門と、指宿の海商人・浜崎太平次です。

厚地次郎右衛門

厚地次郎右衛門はもともと商人ですが、役職の頂点である郷士年寄にもなった士成商人です。町人から武士になるには、薩摩藩への貢献(多大な献金)がないと、誰でもなれるわけではありません。
木曽川治水の際も藩に献金しているそうで、そのくらいお金を持っていたという人物です。

黒砂糖や綿の取引が主で大儲けしていましたが、他に金融業も行っていていました。
融資先は、都城島津家・宮之城島津家・小松帯刀の家、そして琉球王国(沖縄)の役人達。
薩摩藩は琉球王国を通して中国との密貿易を行っていますが、それは厚地家からの融資によって、ほとんどがまかなわれていたということになります。

彼は琉球王国の出先機関であった琉球館(現在の鹿児島市立長田中学校にあった)にも出入りしている商人だったので、酢が中国料理に欠かせない調味料で、中国との貿易に有効だということを知っていました。
厚地家には、藩主・斉興が調所広郷を従えて何度か足を運んでいたそうです。
厚地家のある福山での酢造りに、藩が全面的に協力したのも、こういう事情があったからでしょう。

中華料理-杏仁豆腐

浜崎太平次

浜崎太平次は、函館やルソン島にも支店を持っていた、近世実業界の三傑と呼ばれていた人物。
篤姫の婚礼も、浜崎太平次の資金援助が無ければ出来なかったのでは、と言われています。

彼は都城近くの山之口と高城で大きな寒天工場を経営しており、そこで幕府には内密に寒天を作っていました。
寒天の製造に酢は欠かせないそうです。
製造方法を知らない私は「あれ? 寒天って“トコロテン”を凍結・乾燥させた物では? どこで酢が必要なの?」と思い調べてみたら、トコロテンの原料はテングサ。テングサは酢を加えないと固まらないので、絶対必要。
そしてトコロテンは酢水に入れて保存するのだそうです。

甑島などで採れるテングサを福山港に、それと一緒に福山で造られた酢を寒天工場に運び、大々的に製造。
出来上がった寒天は一旦都城の蔵に納められて、また福山港から琉球経由で中国に輸出されていたのだそうです。
調所広郷の懐刀であった浜崎太平次は、ルソン島にも支店を持っていたので、中国だけでなく東南アジアにも販売網があったと考えられます。

幕府に隠れて行われていた密貿易が、薩摩藩にもたらしたものは計り知れないほど大きなものでした。
厚地次郎右衛門と浜崎太平次。
この二人の豪商がいなければ、天保の財政改革も成功せず、幕末動乱期を支える余財も作れなかったのでは、ともいわれています。

【余談】お由羅の大好物はトコロテンだった?

トコロテン-黒酢

お由羅は、みなさんご存知の通り、島津斉興の愛妾・側室です。
江戸生まれ江戸育ちの、絶世の美女だったそうです。
江戸の薩摩藩邸へ奉公に出ていたところを、藩主・斉興に見初められたというのは、ドラマなどでよくある話ですね。
江戸の屋敷には正室が居るので、参勤交代の度に同行させられ薩摩に来ています。殿様としては、いつも一緒にいたかったのでしょうね~。

そのお由羅の大好物がトコロテンだったそうです。
冷蔵庫も無い江戸時代ですから、涼味を感じるトコロテンが気に入っていたのでしょう。
関西では黒蜜をかけてよく食べますが、江戸では酢醤油が主流。

「ねえ~お殿様ぁぁ♡。お由羅は美味しいトコロテンを食したいですわ。それには、お酢も美味しいものでなくては!」
「そうかそうか♡、わかったぁ~♡♡」
なんていう会話があり、
斉興から「トコロテンを美味しく食べられる酢を造れ!!」
という命令がおり、福山の酢は研究が続けられ、ますます美味しい酢に成長していったのかもしれませんね~。

豪商二人の活躍かぁ…

参考資料:
KAGOSHIMA WEST ROTARY CLUB かごしま歴史街道 福山
くろず屋 原口泉教授 黒酢の歴史を語る!

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