黒糖は甘いけれども、歴史的には‥‥

サトウキビ-サトウキビ畑 食べ物こぼれ話

糖は地球上の全ての生き物のエネルギー源。
人間にとっては、甘いものは体のエネルギーになるだけでなく、心も癒してくれる重要な食べ物ですね。
昨今は、糖の摂りすぎが問題になったりもしていますが‥‥。

砂糖の主成分はショ糖。サトウキビはそのショ糖を多く含んでいるので、効率よく砂糖が取り出せる植物です。
鹿児島の奄美群島や沖縄の島々の人々は、そのサトウキビが重要な作物であったがために、歴史の中で振り回されてきました。

その話に入る前に、まずは日本の砂糖の歴史から。

日本の江戸時代までの砂糖の歴史

コンペイト-金平糖

砂糖の日本伝来は、奈良時代に唐の僧・鑑真が伝えたとされています。が、鑑真の航海は失敗に終わっているので、日本から唐に渡った遣唐使が土産に持ち帰ったのが最初という説もあります。
当時は大切な薬として扱われていたようです。

平安時代には、上流階級の人々の間で調味料として使われるようになりますが、とても貴重なものだったので庶民の口に入るものではなかったようです。

鎌倉時代、室町時代と進むにつれ、砂糖の輸入量は次第に増えていきます。
1543年、種子島に上陸したポルトガル人が鉄砲を伝えます。それを機に南蛮貿易が始まり、カステラやボウロ・コンペイトウなどの砂糖を使った菓子類も入ってきました。
訪れた宣教師に贈られたコンペイトウを、日本で初めて食べたのは織田信長。
これが余程気に入ったのか、信長はしょっちゅう食べていたらしく虫歯だらけになり、それが痛くて常にイライラしていたのでは?ともいわれています。‥‥嘘か実か分かりませんが。

江戸時代になると鎖国により貿易の窓口が長崎の「出島」になり、そこから大量の砂糖が輸入されるようになります。
砂糖の需要は多く、おまけに大変高価だったため、その対価として金・銀・銅の流出が増えていくのが、徳川幕府としても大問題になっていました。
それで1715年、五代将軍・徳川吉宗は「長崎新令」により砂糖の輸入制限を行うとともに、砂糖の国産化を奨励しました。

奄美群島と琉球でのサトウキビ栽培の始まり

サトウキビ-畑

奄美大島で生まれた「直川智」という人が1605年に琉球(沖縄)へ渡る途中で暴風雨に遭い、中国の福建省あたりに漂着しました。
そこで農夫として働き、サトウキビの栽培や製糖技術を学びます。
それから1年半ほどして帰国できる時に、手持ちの荷物の中にサトウキビの苗を3本隠し、持ち帰ります。その頃中国は国外にサトウキビを持ち出すことを禁止しており、見つかると死刑になるというなかでの命がけの行動でした。
この3本の苗は、奄美の地質が合っていたのかスクスクと育ち、1610年に日本で初めてサトウキビの栽培とそれから糖を作ることに成功しました。
また1623年に琉球王国の「儀間真常」が中国に使者を出し、サトウキビの栽培・製糖法を学ばせます。

サトウキビは、奄美群島や琉球の人々にとって、少し暮らしが楽になるための恵みの植物になるはずでした。
しかし、そこに抜かりなく薩摩藩は目をつけます。

薩摩藩が強制した「黒糖地獄」

1609年の薩摩藩の琉球侵攻により、琉球王国は表面上は一つの王国ですが、実質的には薩摩藩の支配下になります。
薩摩藩が琉球王国を通して密貿易がやり易かったのも、こういう状況だったからですね。
その侵攻により薩摩藩の直轄となった奄美群島では、過酷な黒糖製造を強いられました。

江戸時代の最初の頃はサトウキビ栽培を薦めていたくらいでしたが、薩摩藩の財政悪化とともに、もともと米の収穫量が悪かったこともあり、島民は年貢を米から当時非常に高価だった黒糖に代納させられます。
それも搾取ともいえる非情なやり方で。
田んぼは全てサトウキビ畑にされただけでなく、島民の唯一の食料だったサツマイモ畑も、何か植えられそうな土地は全てサトウキビ畑に変えられてしまいます。
そして出来た黒糖は、1滴残らず年貢として納めさせていました(大河ドラマ・西郷どんでも、このシーンはありましたね)。

ソテツ-赤い実

島民の食べるものといえばソテツしかありませんでした。
食べる部分は赤い実や幹の芯の部分ですが、ソテツには毒があるのでそのままでは食べられません。
カットし数日間天日干しし、数日間水に漬け、水替えするを繰り返し、毒が無くなり食べられる状態になるまで、2週間ほどの手間がかかるそうです。
しかし、これしか食べ物がないうえに、圧搾機も無い時代に堅いサトウキビの茎を絞るという重労働を強いられ、当時は「黒糖地獄」と呼ばれるようなとても過酷な状態でした。

薩摩藩は、この黒糖を年貢として納めるだけでなく、じつは琉球の港を通しての密貿易でも利益を上げていたのです。
他にも色々な品を密貿易して、薩摩藩は幕府に見つからないように、こっそり財産をつくっていましたが、この黒糖から得た富はかなり大きく、これも明治維新へと繋がる資金にもなるわけです。

明治維新後も紆余曲折の歴史

黒糖-かたまり

明治維新以後「黒糖地獄」から解放され、一時期奄美群島の糖業は衰退していましたが、明治40年頃から農商務省が糖業の奨励に乗り出し、ジャワ系統の大茎種のサトウキビが台湾から導入されたことなどもあり、産糖量は増加しました。

しかしそれも長くは続かず、昭和になると太平洋戦争が起こり、主食料増産のためにサトウキビ生産は極度に減産されました。
しかも敗戦(1946年)後、北緯30度以南の島は米軍政府下に置かれてしまいます。
沖縄だけでなく、小笠原諸島・トカラ列島、そして奄美群島もです。
トカラ列島は1952年、奄美群島は1953年、小笠原諸島は1968年、沖縄は1972年に日本に復帰しますが、それまで日本から一度切り離されたという暗い歴史があります。

復帰後は国庫補助事業等によるサトウキビの生産力の増強が図られましたが、大型の製糖工場が建設されたりして、奄美群島の伝統的な「黒糖作り」の文化は途絶えてしまいそうなほどの危機に瀕しました。

このように奄美群島の「黒糖作り」には、周りの思惑に翻弄され辛い時代もありますが、そんな中でもしっかりと、鹿児島の食文化を支える甘味料として根付いてきました。

近年の健康志向の高まりから、鹿児島や沖縄だけでなく、全国的にも黒糖を食する機会は増えてきています。
黒糖は甘いですが、それだけでなく食べると深いコクや風味を感じるのは、そういう過酷な歴史に振り回されながらも作り続けてきたという想いも入っているからかもしれませんね。

そんな歴史があっから、

黒糖の味は深かかのかも…

参考資料:
農林水産省 うちの郷土料理 黒糖
パールエース 砂糖の歴史 日本編
Kanro Sweeten the Future
奄美景 毒抜きをして食べる甘みの郷土食
Wikipedia 黒砂糖

タイトルとURLをコピーしました